We Dance Jazz!!①
 - Mad On JazzのGilles Peterson - 

 

 

音楽シーンにおけるミュージシャンやプロデューサーに焦点を当てたブログ企画です。

 

今後、シリーズ化が図られるかは未知数ですが、記念すべき第一弾には、イギリスのDJ/プロデューサー/レーベルオーナー:Gilles Petersonにフォーカスします。

 

 

Gilles Petersonには、主にふたつの顔があるように思っています。

ひとつはプロデューサー、もうひとつはセレクター(選曲家)としての側面です。

 

プロデューサーとしてのGillesについては、既に多くの場で語られてきました。

1987年に設立されたアシッド・ジャズ・レコーズからは、Galliano、A Man Called Adam等を輩出、

(Brand New Heavies、Jamiroquai、Corduroy、Mother Earthといったアーティストは、Gillesがレーベルを脱退して以降の契約のようです)

1990年に誕生したトーキン・ラウド・レーベルでは、Incognito、Young Disciples、Omar、4Hero、MJ Cole、Roni Sizeらを世に出し、

2006年以降のブラウンズウッド・レコーディングズのレーベル運営まで含め、そのプロデューサーとしての輝かしい経歴については、ここで新たに語ることは無いように思います。

 

 

一方、セレクターとしてのGilles、特に1980年代におけるそのキャリアの初期に関して語られることは、そう多くないような。

ラジオ番組、クラブ、コンピレーションアルバムと、セレクターとしての活動の場もかなり多面的であるにも関わらず、です。

 

「Gillesが、どんな曲を選び、どんな風に聴かせるか」。

この点に集まった世界の耳目は、そのまま80年代以降のジャズ・シーン、クラブ・シーン全体における熱量のかなりの部分を担っていたといっても過言ではないでしょう。

 

筆者自身も、20代の多感な頃を彼の動向を追うことに少なからず費やした面もあり、30年以上が経った今の目線で、当時を振り返ってみたい思いも出てきた次第です。

 

ということで、このブログでは、Gilles Petersonのセレクターとしての魅力や影響力について、自分なりにおまとめしてみたいと思います。

 

 

Gillesは、1964年にフランスはカーンという都市に生まれました。

カーンは、フランスの北西部に位置する大変美しい街で、海にも近く、海峡のすぐ向こうはイギリスになります。

ロンドンへは、幼い頃に家族で引っ越してきたようです。

 

Petersonは本名ではなく、海賊ラジオでDJをする際に「わかりやすい名前」として自ら名乗り出した名とのことで、彼のキャリアは、ラジオDJとして、なんと15歳!の頃に始まっていたようです。

 

自ら海賊ラジオ局を運営していた頃と思われるGilles。なんかわかりませんが、Jazzのこと、よく知ってそうな顔してます。

 

Gillesは自宅の庭から、海賊ラジオ局:Civic Radioとして電波を発信、そこで自ら選曲/DJをしていたというのです。未だ1980年代にも入っていない頃ですね。

 

1983年あたりからは、ここでの活動が海賊ラジオ局の大手:Radio Invictaで話題となり、この局で番組を持つことになった他、1986年からSolar Radioで「Mad On Jazz」を2年間担当、後にBBC Radioへ引き継がれ、90年代以降に世界各地で放送された「Worldwide」への仕事に繋がっていくワケです。

 

ネットを回遊していたら、GillesがSolar Radioで「Mad On Jazz」の最終回を迎えた際の音源らしきものを見つけました。

 

 

1980年代のラジオDJに共通するスタイルでもあると思うのですが、結構Gillesがしゃべりますよね。いわゆる「ディスクジョッキー」的な。

曲の音量をアップダウンさせながら、曲に被せるようにして繰り出されるGillesのコックニー(ロンドン訛りの英語)が、最高にロンドンな気分にさせてくれます!

 

そして、BBCに移った1987年の「Mad On Jazz」を以下に。Mark Murphyがゲストの日だったようです。

 

 

 

ただ、この頃の活動についてGillesは「ジャズ・シーンの旧世代との間で葛藤があった」と告白してもいます。

ジャズを他のジャンルと混ぜたり、ジャズに合わせて詩を朗読したり、ジャズで踊ることの熱を伝えようとしたりといった活動は、伝統的シーンからはなかなか理解されなかったということのようです。

その後、新たに立ち上がったラジオ局:Jazz FMで理事となったGillesですが、ここでも「John ColtraneとPublic Enemy“Fight The Power”が同じ番組の中でかかることについて、局の上層部に不満な顔をされた」とも。

 

 

また、このJazz FMでの活動中には、こんなエピソードも。

1986年のリビア侵攻前に、Gillesが番組の中でハイド・パークでの平和行進に参加したことに言及したところ、Jazz FM側がこれを政治的発言とみなし、彼を停職処分に。

しかし、このことがニュースで報じられると、視聴率という数字をしっかりと持っていたGillesへの処分を不服とするスポンサー企業が続出し、この事態を前にJazz FMは彼をすぐに復帰させました。

 

 

Gillesって、小柄だし、基本柔和な表情をしていることが多いと思うのですが、シーンに地殻変動を起こさんとする立場としては、やはりというべきか「戦うDJ」としての苦労も多かったであろうことは、改めて認識しておきたいなと思ったのでした。

 

 

 

第1回はGilles Petersonの「ラジオDJ」としてのキャリアに触れてみましたが、いかがでしたでしょうか?

このブログについても、「みんなでつくるブログ」の名の下、追加情報があれば、是非コメント欄で提供いただければと思います。

 

第2回は彼の「クラブDJ」としての側面に迫りたいと思っていますので、お楽しみに!

 

 

関連するブログへは、以下からアクセス出来ます。

We Dance Jazz!!② - DingwallsのGilles Peterson - 

We Dance Jazz!!③ - Jazz JuiceのGilles Peterson - 

UniverGoods

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