Above The Rest!
 - adidas SUPERSTAR㊤ - 

 

スニーカーの銘品・傑作にフォーカスし、歴史や文化的背景も織り交ぜながら、その魅力に迫るブログ企画です。

 

そもそも「スニーカーにおけるマスターピースって何なのか」という話ですが、それはこの企画を進める中で追々固めていくとして、まずは「そのアイテムにストーリーがあること」そして「筆者が好きなアイテム」といったあたりを押さえつつ、ユルくスタートさせていただければと思います。

 

この企画の目玉のひとつは、取り上げるスニーカーを画像で確認出来ること。これを実現するにあたっては下北沢のヴィンテージ・スニーカー・ショップ:somaさんにご協力をいただきました。世界に誇るsomaアーカイブを通じて、偉大なるスニーカーたちのストーリーを体感して下さい!

 

 

まず、このSUPERSTARの歴史の入口として、1960年代後半にスニーカーを出し始めた頃のadidasが、それなりに苦戦を強いられていたという話はポイントでしょう。「adidasがドイツの会社だった」ということもあって、ヨーロッパで人気のスポーツでは主力商品を持っていたようなんですが、アメリカで人気のスポーツでは参入障壁を崩せないでいたと…つまり、サッカー、テニス、陸上ではイケてたが、野球もバスケも、それとアメフトもアイスホッケーも全然ダメじゃん、という状況の中、バスケ市場での風穴を開けるために投入されたのが、このSUPERSTARだったというワケです。

 

因みに、SUPERSTARにはSUPERGRIPという元ネタがあるということはご存じでしょうか。正確には、adidasのアメリカ参入はこの辺のモデルで行われたようです。こちらもオールレザーのバッシュですが「シェルトゥ(つま先の貝殻状のプロテクター)」にはなっていません

 

SUPERSTARの元ネタ:SUPERGRIP。adidasのNBA参入の足掛かりとなった重要アイテムだが、シェルトゥにはなっていない。

 

なんだかSUPERSTARとは別物…。どちらかというと、テニスシューズに見えるかも。やっぱり「シェルトゥ」ってSUPERSTARの「顔」を決める重要な要素なんだと、個人的には再確認識した次第です。

 

1960年代当時のアメリカ市場への挑戦にあたり、adidasが自らのスニーカーに装備したのはズバリ「機能性」。具体的には、ケガのしにくさ・疲れにくさ・滑りにくさ・足への馴染みやすさといった観点で様々な改良が施されたようなのです。そういった機能性を備えたSUPERGRIPに更に改良を重ねたものがSUPERSTARだったということで、「キャンバス生地」でシェアを獲得していたCONVERSEにとっては、「バッシュなのにレザー」ということ以上の相当な衝撃があったことが推察されます。なんでも「シェルトゥ」も、NBAプレイヤーたちからのアドバイスがあって取り入れられたと。結果、SUPERSTARがNBAで採用され始めて以降、当初8割ものシェアを誇っていたCONVERSEを凌駕する存在になるまでにあまり時間はかからなかった、とのことです。

 

因みに、SUPERSTARをNBAで最初に履いたのって誰だったのでしょう?

当初NBAでは、スニーカーの採用はチーム単位で行われたようなので、「誰が最初に」ということはなさそうです。ただ、SUPERSTARが語られる際に、Jabbar(カリーム・アブドゥル=ジャバー)の名前が上がることは多いですね。SUPERSTARの履き心地に対して彼が発した「まるで素足に3本線がプリントされているようだ」という言葉が有名です。

 

若き日のジャバー。当初は他のプレイヤーたちと同様、CONVERSEを着用していたことがわかる。

スカイフックを発射するジャバー。レイカース移籍前の足元は、SUPERSTARの可能性高し。

ブルース・リー映画「死亡遊戯」での勇姿。一般的には「スニーカーを履いていないジャバー」の方が認知度高いのかも。

若き日のジャバー。当初は他のプレイヤーたちと同様、CONVERSEを着用していたことがわかる。

 

スカイフックを発射するジャバー。レイカース移籍前の足元は、SUPERSTARの可能性高し。

 

ブルース・リー映画「死亡遊戯」での勇姿。一般的には「スニーカーを履いていないジャバー」の方が認知度高いのかも。

 

一方で、SUPERSTARのファッションや音楽と関わりが始まるのは1970年代から。お約束の「Run DMCの話」の前に、まずはストリートの現場第一線で「NBAのスーパースターたち」への憧れもあって、特にアフリカンやプエルトリカンの若者たちからの支持が高まっていったという大きな動きがあったようです。

その後1980年代に入り、MTVなんかが媒介となって、アメリカのトレンドが割とタイムリーに共有されることになったことは、adidasの世界における市場形成において大きかったのではないでしょうか。筆者のような「古き」スニーカー・フリークの皆さんの初期衝動もこの時期にあると思われますが、この辺の話は「ヒップホップとの関わり」という別のブログ企画で深掘り出来ればと考えています。

 

ランDMCの「紐無し履き」。「ストリートが出自であることを示すため」に生まれたスタイルだったとか。

 

 

1990年代になって、日本ではもういっちょSUPERSTARの大きな波が来ます。それが藤原ヒロシ氏が取り上げた「ブラックのSUPERSTAR」

このムーヴメントの根っこには、SUPERSTARがフランス以外で作られるようになったモデルへの疑問みたいなものもありそうです。カラーリングの妙だけではなく、あの頃のクオリティを取り戻せ!という思いみたいなものが、そのレアリティと相まってフィーバーしたと見ることが出来るのではないかと。

 

デッドストックのフランス製ブラック!画面からでも充分に伝わる、この迫力!

 

 

ここまで、SUPERSTARが生まれた背景やその歴史を辿ってみましたが、いかがでしたでしょうか?

 

次回は、引き続きSUPERSTARにフォーカスし、デザインや仕様の変遷を追ってみます。凄いモデルが続々登場する予定ですので、お楽しみに!

 

 

関連するブログへは、以下からアクセス出来ます。

Above The Rest! - adidas SUPERSTAR㊦ - 

 

 

UniverGoods

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