Above The Rest!
- Nike AIR JORDAN 1㊦ -
2025年10月1日
スニーカーの銘品・傑作にフォーカスし、歴史や文化的背景も織り交ぜながら、その魅力に迫るブログ企画です。
第7弾では、泣く子も黙る、NIKEのAIR JORDAN 1を取り上げています!
前回は、AIR JORDAN 1における「ホワイト・ベース」のカラバリ等を辿ってみましたが、今回は、引き続きAIR JORDAN 1の魅力にフォーカスすると共に、「ブラック・ベース」のカラバリ等を、可能な限り追ってみたいと思います。
この企画の目玉のひとつは、取り上げるスニーカーを画像で確認出来ること。これを実現するにあたっては下北沢のヴィンテージ・スニーカー・ショップ:somaさんにご協力をいただきました。世界に誇るsomaアーカイブを通じて、偉大なるスニーカーたちのストーリーを体感して下さい!
それでは、AIR JORDAN 1における「ブラック・ベース」のモデルたちに触れてみましょう。
⑧「黒/赤」:通称「Bred」
「Jordanが、規定に定められた白ベースでないモデルだったため、毎試合5000ドル(約70万円)の罰金を払って履いていた」というのが、このモデルです。この逸話から、その後の復刻時に「Banned(禁止された)」という通称のモデルが発売されました。
また、Jordan本人が履いていたのは「つま先が赤」のモデルだった、という話もありますね。
なお、AIR JORDAN 1が発売開始される際の、NikeによるキャペーンCMを発見しましたので、置いておきます。
CM内で語られているコピーは「10月15日に、Nikeは画期的な新しいバスケットボールシューズを作った。そして10月18日に、NBAはそのシューズをゲームから追い出した。だが幸いなことに、NBAはあなたが履かないようにすることはできないのだ」というもの。
これからリリースするアイテムに関する、この自信満々、というか挑発的な感じ、痺れませんか?
加えて、このモデルは、先日アップした別のブログ「LL Cool J × AIR JORDAN」でも触れましたが、ラッパーのLL Cool Jが、そのデビュー・アルバムのレコジャケで着用していたものでもありますね。
⑨「黒/青」:通称「Royal」
実際のゲームでは、Jordan本人が履くことは無かったようですが、大変人気があるモデルですね。こちらも、先日アップした別のブログ「LL Cool J × AIR JORDAN」でも触れましたが、ロック・ミュージシャンからの支持が高かった気がします。
当時の日本の状況について、藤原ヒロシ氏は「アメ横に行っても「白」しか売ってなかったが、原宿のBEAMSにはこの「黒青」が売ってて買った」とコメントしていました。
⑩「黒/灰」:通称「Shadow」
球数が少ないと聞くモデルですが、somaさんのアーカイヴでは、いくつか登場しますね……「恐ろしや、soma」でございます。
「ブラック・ベース」については、別のカラバリ情報もあるにはありますが、真偽の確実性からは、上記3つとすることで問題ないような気がしています。
(「いやいや、本物でこのカラバリもあるよ!」という情報は随時お待ちしています!このブログのコメント欄やアイテム投稿欄を活用いただき、情報共有を!)
一方で、AIR JORDAN 1には「キャンパス・タイプ」があったことをご存じでしょうか?
モデル名は、AJKO。その由来は「AIR JORDAN Knock Out」の頭文字で「若い選手が、将来Jordanを倒せるように」という意味が込められているんだそうです。
当時高価だったレザーの代わりにキャンパスを用いられたAIR JORDAN 1の廉価版となり、発売開始は、AIR JORDAN 1同様1985年、生産は韓国で行われ、カラバリは2つのようです。
「黒/赤」
「白/赤/黒」
AIR JORDAN 1に関する情報は以上です……
……さて、このAIR JORDAN 1に関しては、他のシューズに比べカラーリングのバリエーションについてはかなりの幅がある一方で、仕様の変遷に関する記述が極めて少ないことにお気づきでしょうか?
その理由は、このAIR JORDAN 1は、1985年の1年しか展開されていなかったことによると思われます。
1年しか展開されなかったモデルに、仕様の変更は起き得ない、というワケです。
1986年に入ると「Air Jordan 2」が発売されます。しかも、生産はイタリアで、「1」とはデザインの方向性/志向が全く異なる作りとなりました。
それ以降についても、ほぼ毎年、デザインが大きく刷新された新たなモデルが次々と発売され、その中では、1980年代後半~1990年代を中心に2000年代まで起用されたTinker Hatfieldというデザイナーの名が、このシューズのキーマンとして浮かび上がってきます。
彼は、「Jordanが「幾度か」の引退をしていた期間も、AIR JORDANシリーズのデザインを続けた」というだけでなく、「他社への移籍を考えていたJordanを踏みとどまらせた」といった逸話が残るほどに、このシューズ及びJordan本人に深く関与した人物でした。
1990年代の中期までに発売されたAIR JORDANシリーズが、somaさんのアーカイヴで確認出来ましたので、いくつか紹介しますね。
AIR JORDAN 7
AIR JORDAN 10
AIR JORDAN 11
デザイナーのTinkerは、この「11」を「ベストなデザイン」としていたようです。
AIR JORDAN 12
AIR JORDANシリーズについては、その後もリリースが続き、つい先日には「40」(!)の発売が発表されました。
さて、今回フォーカスしているAIR JORDANにおける「1」と「2以降」の間に起きた「デザイン上の大きな変化」が伝わったでしょうか?
この間に何があったのか…
それは簡単に言ってしまえば、「スニーカーの位置づけにおいて、ファッション・アイテムとしての比重が極めて高くなった」ということなのでしょう。
加えるなら、この時期は「素材」や「接着/縫製」といった面で、めまぐるしいまでの「技術革新」が進められていたワケで、あたかも、デザインと技術が、その革新性を競うかの如く、相乗効果的に変化を見せていた時期、ということだったのではないかと。
そのスピード感みたいなものは、「1」が生まれた頃とは比べ物にならず、その違いがそのまま、スニーカーにおける「Old School」と「New School」的なイメージの分化を体現した気もします。
そういった意味では、「AIR JORDANだと、どのモデルが好き?」との問いに対するアンサーからは、答えた人物の「スニーカーに求めるもの」を推し量ることが出来そうですね。場合によっては、それはファッションや聴いている音楽の志向にも及ぶかもしれません。
その後、Michael Jordanは自身のブランドを起こし、スニーカーに留まらない「アパレル展開」を拡大していきました。
今、そのブランドは、Nikeの子会社になっているようです。
そのような動きの中では、Travis ScottやBillie Eilish、そして藤原ヒロシといったアーティストとのコラボも実現されました。
「時代と共にある」というよりは、「時代を巻き込み、呑み込む」ような様で生き続けているAIR JORDAN。
Above The Rest!なる言葉は、このモンスター・シューズにこそふさわしいのではないでしょうか。
そんなことを考えるうちに、今は亡きPeterと73歳になったTinker、ふたりのデザイナーに、当時の経緯や想い、今の状況に関する所感なんかを聞いてみたい気持ちになりました。
もちろん、Jordanも交えて!
<画像を押下すると、それぞれの商品に関する投稿ページが閲覧出来ます>
「スニーカーのマスターピース」にフォーカスするブログ企画の第6弾は、AIR JORDAN 1を取り上げてみましたが、いかがでしたでしょうか?
記事の下にあります「コメント欄」に感想をいただけると、担当「中の人」の励みになりますので、是非よろしくお願いします!
また、「このスニーカーを取り上げて欲しい」というリクエストもお待ちしております。筆者の力が及ぶ限りではありますが、お応えしたいと思っています!
ということで、次回もお楽しみに!
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UniverGoods













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